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2007年6月

2007年6月21日 (木)

6/21、大谷ダム・笠掘ダムの様子

今日6/21の午後、梅雨に入った三条下田の大谷ダム、笠掘ダムの様子を取材してきました。最初に大谷ダムのヒメサユリ湖の様子です。

Photo 比較的落ち着いたたたずまいです。ただ、例年より雪がすくなかったためか、水量はさほど多い様には見られません。お?この人気のないダムにどなたかいらっしゃいますね?やや?三條新聞のⅠ記者ではないですか!Photo やはり梅雨入りしたダムの様子が気になったのでしょう。さすが下田担当です。粟ヶ岳遭難事故のときは自ら取材で山に登られたそうですPhoto_2 。記者も大変です。

いつも上がっている噴水も今日は上がっておらず、物静かな雰囲気です。








そして笠掘ダムの笠掘湖です。こちらは一目瞭然で貯水量が少ないことがわかります。

Photo_3 森からは昨日今日に降った雨が流れ込んでいますが、ダム満水時からは程遠い状態です。

Photo_4 Photo_5       
今年は空梅雨が予想されていますが、果たして今年の空模様はどうなのでしょう。水害にならない程度の程よい雨を私は希望します。Photo_6 T.K

2007年6月15日 (金)

テリさんの畑

※また梅雨の季節がやってくると同時に、3年前の7.13水害が思い出されます。そして中越大震災。理事長北澤幹男からのテキストです。2005年に作られたテキストなので、村内という表記がありますが当時の下田村のことです。(T.K)

テリさんの畑

山間の斜面の、林で囲まれた所に、テリさんの小さな畑があります。畑は自宅のある集落からはかなり離れていますが、八十歳を過ぎたテリさんは、小さな手押車を押しながら、ほとんど毎日のようにやってきます。

本当に小さな畑ですが、自分一人で作れるものは季節ごとにいろんな野菜を作っています。春には一塊のイチゴが花を咲かせ、秋には立派な里芋が掘られます。どれもほんの少しずつしか作りません。テリさんの家の食卓はスーパーで買ってきた食材が中心で、畑のものは食卓に出ず、テリさんが自分で食べ、友達にわける分だけ野菜を作るのです。

その日は朝から湯船をひっくり返したような土砂降りが続いていました。小さな診療所も雨で流されるののではないかという降り方でした。山であふれた水が直接周囲を流れ始め、用水は水を吹き上げました。

昼ごろには、村に通じる橋は全て通行止めとなり、道路も大半が遮断され、とうとう孤立してしまいました。川は堤防を越えるようになり、いたるところで田や畑が川となり、近くの温泉施設は海の中に孤立した状態となりました。そうこうするうちに、ダム決壊の恐れが出て、放水サイレンが不気味になり続け、村内の多くの集落に避難指示が出ました。

夕方を過ぎて、雨は小降りになり、川の水位の上昇も落ち着きましたが、三条市街地では土手が決壊し、大変な惨事となりました。

水害が去り、しばらくしてテリさんの畑に行ってみました。相変わらず、黙々と畑仕事をしていましたが私を見つけると「山からこの畑に、滝のように水が流れたらしく、かなりながれてしもたて」「でももう普通の畑みたいに復活していますね」「自分の畑だからね、一生懸命なおしたて」「根こそぎ流れなくて良かったですね」「洪水よりも人間の方が根こそぎ盗んでいくからおっかねって」

この村では春から秋にかけて、栽培している山菜、庭先の花、キノコ等、よく観光客に盗まれます。田舎とはいえ、私有地なのに、たけのこも根こそぎ盗まれます。たけのこのある場所に、わざわざ「ここの竹の子取るな」と看板を出す人もいました。

「洪水が畑を襲ったけど、町の盗っ人と違って根っこは残してくれたっけね」と明るい笑顔で、また畑仕事に戻りました。

秋の一日が終ろうとする夕方六時直前でした。ゴオーという不気味な大音響とともに天地がひっくり返るような揺れが来ました。最初は何が起きたのか理解ができませんでしたが、すぐに次の大揺れが来て地震だと気付きました。その日は大地震並みの余震が明け方まで続き、恐ろしい夜となりました。

翌日に診療所を見てみると、カルテは散乱し、天井の一部が下降し、所によって落ちてきたガラスが散乱し、壁にヒビが入っていましたが大きな被害は免れました。新潟県中越大震災は村内にっも、あちこちで被害を残しました。

余震も減ってきた頃、テリさんの畑で一生懸命働く姿を見つけました。

「地震でも畑は大丈夫だった見たいですね」「長く生きたろもおっかねかったの、畑は大丈夫らったて」「少しずつ作ってればいいんだてば、少しずつ、自分の分だけ作ってればいいんだてば、少しずつ、自分の分だけらてば」

今年もテリさんは、すこしずつ野菜を作るのでしょう。厳しい季節や気候の中で、小さな畑は、きっと大きな掌の上にあるのでしょう。洪水や地震にもまれながら、私たち自身の右往左往も、掌の上であることを忘れそうです。

Photo北澤幹男

2007年6月12日 (火)

初夏の下田、北五百川,棚田の風景

   農林水産省が指定した、「日本の棚田百選」。この三条市下田地域にもあるんです。

推薦理由が「国土保全:急傾斜のため、放棄されれば土砂災害が下流農地や人家に及ぼす影響は甚大である。棚田の保水機能はそれらを防止する役割を果 たしている。」
景観:棚田の風景は美しく、他の村内の景観とともに「水と緑と文化の里 活き活き下田村」のイメージに大きく貢献している。

少し前の資料ですので、表記が下田村になっていますが、景観の美しさは変わっていません。

「北五百川の棚田」と呼ばれています。6/12、梅雨に入る前に取材に行ってきました。場所は・・・「いい湯らてい」から車で5分ほど、駒出川上流に向かって左岸を走り、左折するのですが、特に目印はありません(笑)。この時期農作業をされている方がいらっしゃるので気軽に声をかけて、道を聞いてみましょう(すみません、文字面でこの道を説明するのは無理です)。

今日お伺いしたのは、佐野誠五さんのお宅です。  ここの棚田は1.5haあるそうですが、佐野さんはその半分の75aを所有・管理されています。

Photo











Photo_2 またこの近辺の棚田は一部、一般の方にオーナー制度という形で貸し出しをしており、15kgのお米を1万円で購入することによりその権利が発生します。オーナーになると、田植えや稲刈りなどのイベントに参加できるというわけです。

食の安全というものが見直されている今、自分が多少なりとも関わったお米というのは、愛着がわくと思いPhoto_4す。
Photo_6佐野さんにいろろお話をお伺いしました。
作られている品種は?

佐野さん:こしひかりですね。
素晴らしい棚田ですね、何代ほど続いているのですか?
佐野さん:いやーわからないんですよ。お寺が火事で焼けているので台帳もなくなっちゃって。何代続いているか、正直わからんですね。
今、わたしたちがいるこの東屋ですが、これは?
佐野さん:私が工務店にお願いして作っていただきました。
ということは、この東屋は佐野さんの私有地なんですよね?
佐野さん:まぁそうですけど、皆さんに来ていただいて、景色やら楽しんで頂いていますよ。

そうなんです。棚田の脇の道を登ったところに、東屋があり、そこからの景色は絶品です。

Photo_7Photo ここの東屋はどなたでも使って良いんですか?
佐野さん:ええ。T.Kさんも知っている○○ちゃん、来ましたよ、あれ彼氏かな?
あ、それ絶対彼氏ですよ、だって私が紹介したんだもん。なんだ三条来るんだったら連絡よこせって~(以下二人で共通の知人の話で棚田の話は関係なく盛り上がる・・・・・)
佐野さん:季節によっては片栗の花が一面に咲いてそれは綺麗なもんですよ。

Photo_2 もう格好のデートコースですね。そういえばあぜ道にひめさゆりの花も咲いてましたね。
佐野さん:あ~、もう時期は終っちゃっていますけどね。もう少し早い時期ならこの景色と相まって、いい感じでしたよ。
この東屋は開放していますし、皆さんぜひいらしてくださいね。

佐野さんのご好意ですが、あくまでこの棚田と東屋は私有地です。ごみの投げ捨てなんて論外です。皆さんマナーを守って、日本の原風景を楽しまれてはいかがでしょうか?
Photo_3 11

T.K

追記:すっかり忘れていた、佐野さんとの会話を追記します。
こちらの棚田の水はどちらから引っ張っているのですか?
佐野さん:これがですね、ここから1.5k先の上流からなんですが、湧き水なんですよ。粟が岳の雪解け水が地下に浸透し、それが長い時を経てろ過されて湧き出るんですよ。だからこのあたりの棚田は、そのまま飲める水を使って米を作っているんですよね。

こんな大事なお話を忘れておりました。追記という形で申し訳ありません。佐野さん、ごめんなさい。

2007年6月 8日 (金)

ラムの憂鬱

ふさばあちゃんはとてもとても小柄なおばあちゃんでした。                    
それに比べておじいちゃんはとても背が高く、ポストと電柱のような夫婦でした。            
村の中で一番奥の小さな集落に二人は住んでいました。
おじいちゃんは大変な医者嫌いで、ボケが進んでもめったに診療所には              
来ようとせず、とうとう田んぼにはまって息絶えている状態で見つかりました。

ふさばあちゃんは半狂乱となり、町の娘さんの家にしばらく預けられて              
しまいました。
往診に行くとふさばあちゃんは寝たきりの状態で、食事もままならぬ様子で             
更に一回り小さくなったようでした。
町に嫁いだ娘さんにあずけられてからは、自宅恋しさがかえってつのり、             
日に日に弱ってしまい、腰まで痛くなり、どうにも辛い療養となっていました。

その頃、診療所に併設して、老人保健施設が開所した為に、面倒の見切れなくなった
ふさばあちゃんは、入所する事となりました。

また我が家には、赤毛のボーダー・コリー犬の子犬のラムちゃんが来ました。         
最初は縫いぐるみのような小さなラムでしたが、やがて朝は一緒に老人保健          
施設の中を散歩するようになりました。
ふさばあちゃんは置いて来た6匹の猫が心配でしたが、ラムが寝ているベッドに        
ちょこっと顔を出すと大変に喜び、枕の下からせんべいを半分くれました。

その日から決まって、ラムはふさばあちゃんの部屋に顔を出すように               
なりました。ふさばあちゃんは毎朝毎朝ラムが来るのを待っていました。            
そのうちに、頭と首がだいぶ動くようになり、
ベッドからラムを見下ろし、「ラムちゃんや、私の家の猫達はどうしているだろうね」、
ラムは「ふにゃふにゃ」、「ご飯をもらっているだろうかね」「ふにゃふにゃ」、
いつの間にかこんな会話も聞かれるようになりました。

こんな状態が何ヶ月も続いたある日、とうとうふさばあちゃんはベッドに            
身を起こせるようになり、
「早くラムを追っかけられるようになればね」「ふにゃふにゃ」「歩けるようになれれば」
「ふにゃふにゃ」等と会話しながら、ベッドの脇からせんべいをくれました。

やがて車椅子でホールにも出られるようになったふさばあちゃんは、                
朝にラムを見つけると、全速力で車椅子で自分の部屋へとせんべいを             
取りに行くようになりました。                                       
とうとうある朝行くと、そこには壁に伝いながらも二本の足で立っている              
ふさばあちゃんがいました。
ラムの顔を見つけるなり、                                                  
「ラムやおまえのおかげで歩けるよ」「ふにゃふにゃ」
「ラムやおまえがいなかったらまだ寝たままだよ」「ふにゃふにゃ」と                     
言いながらせんべいを取りに行きました。

それからしばらく経った頃には、ふさばあちゃんはラムの顔を見つけると、             
走って自分の部屋にせんべいを取りに行けるようになりました。おかげで女の子としてお年頃を              
迎えたラムはすっかりとふくよかになってしまい、ダイエットと運動を命じられる          
事となりました。

その後、ふさばあちゃんは診療所の隣に出来た、特別養護老人ホームに              
入所しました。また、ラムにはポポという名前の赤毛のボーダー・コリーの            
妹が来ました。ラムとポポは、今は毎朝毎朝特別養護老人ホームに
散歩に行きます。ラムを見つけると、ふさばあちゃんは相変わらず                    
「ラムやよう来た」「ふにゃ」と
自分の部屋にせんべいを取り行き、「ラムやこれしか無いよ」「ふにゃ」と               
沢山のお菓子を抱えて戻って来ます。
やっとスリムな女の子になりつつあるラムには、うれしいけれども憂鬱な               
有り難い時間を過ごしています。Photo_2
北澤幹男

2007年6月 7日 (木)

いちごの時間(とき)

Iじいちゃんはとてもわがままなおじいちゃんでした。

診療所は山深い所にあり、毎朝マイクロバスで患者さんをご自宅まで向かい          
に行き、診療が終わると再びお送りしています。
ある日突然、「今S市のS総合病院の玄関にいるからすぐに向かえに来て           
欲しい」と電話が来ました。悪びれた様子もさらさら無く、診療が終わると            
「T市の整骨院まで送って欲しい」とのたまわれます。
毎日のように診療所に来ては、周囲のお年寄りに、若いときの自慢話や            
色んな説教を繰り返し、少し鼻つまみ者状態でした。
それでも80才はとうに過ぎているとは思えないバイタリティに満ちており、
いわゆる元気な、ちょっと呆けたおじいちゃんで、憎めない所もちゃっかり           
と備えていました。時にはあまりのわがままさから、家族とうまくいかず、           
「整体マッサージにかかるから」と言ってホテルに泊まり込む日々もあり            
ました。周りの人には家に帰れない状態とも言えず、「ちょっとホテルで            
静養しているのである」と待合室で自慢げに話しているのが聞こえました。

Iじいちゃんは診療所の為には一生懸命でした。ある日曜日、診療所の            
前庭で一生懸命に大きなそてつを植えているあやしげな人影が有りました。         
近づくと、Iじいちゃんが一生懸命に土を掘り返していました。                   
「診療所の庭にそてつを持って来てやったよ、心配だから自分で植えるんだ」と         
振り向きもせずに植えています。
後日、自宅の庭から勝手に抜いてきたものと判り、ご家族にお詫びの              
連絡をとるはめになりましたが。

ある日、Iじいちゃんは診療所の待合室で意識が無くなりました。                
周りのお年寄りは、
「また、いつもの発作のまねだよ」等と言ってますが、さすがに点滴をして、
救急車にて病院に入院して貰いました。この頃から、Iじいちゃんも入院が           
長びくようになりました。

自宅に退院してきたIじいちゃんは、手足もほとんど動かない寝たきり状態で、         
鼻からチューブが差し込まれていました。
その日から、私の往診が始まりました。過疎の村にも分け隔て無く暖かい            
日がさすようになった頃、少しずつ様態は悪化していき、お迎えが近くなって          
来ました。

ある日往診すると、ここ2〜3日でお迎えが来る様子で、日中一人で面倒            
見ているはずのおばあちゃんにお話しました。その夜は緊急の電話が             
来るかと心配していましたが、無事に一夜が過ぎました。よく日行くと                
Iじいちゃんの様態は更に悪化していました。おばあちゃんに事情を説明し、            
Iじいちゃんのそばについていて欲しいとお願いして帰ろうとすると、                 
両手いっぱいのいちごをおみやげにと差し出されました。                      
なるほど、往診に来たときにおばあちゃんがいなかったのは、畑にいちごを            
摘みに行っていたのだと判りました。

次の日行くと、またおばあちゃんがいませんでした。往診が終わり、               
帰ろうとすると台所からおばあちゃんが出てきて、小さなボールに                         
いっぱいの洗ったいちごを黙って手渡してくれました。                          
「Iじいちゃんはいよいよ最期だから、一緒にいてあげてね」言い残して帰りました。
また翌日往診に行くと、やはりおばあちゃんはいませんでした。                   
暖かい日で散歩でもしてるのかなと思っていると台所でごそごそと音がします。            
帰り間際に小さなタッパーに詰められた暖かい、作りたてのいちごジャムを            
差し出しながら                                              
「先生、いちごジャム食べるかね」「じいちゃん、もうすぐらかね」と                  
ぼつぼつと小声で聞かれました。
「うん、いちご有り難う」「じいちゃんはもうすぐだ」と答え、暖かくていい匂いの           
するいちごジャムと共に家を出ました。

どうして危篤のIじいちゃんと一緒にいてくれないんだろう。やっぱりあれだけ          
わがままだったから、面倒を見るのが嫌なのかなと勝手に考えていました。
次の日も往診に行きました。さすがに今日明日という状態に陥っており、            
最期は一緒にいてあげてねとおばあちゃんに頼もうと家の中をさがしたら、           
うす暗い台所の椅子にぽつんと寂しそうに座っていました。
とても甘い暖かい香りのする台所でした。
「ほんのもうちょっとでお迎えが来るからね」と言い伝え帰ろうとすると、                      
おばあちゃんは大きなボールにいっぱいの、作りたてのいちごジャムを               
手渡してくれました。
「いちごは全部摘んだ、先生が往診に来るのも今日が最後だと思うから、            
いちごは全部ジャムにしたんだ」。

帰りの道すがら、やっぱりばあちゃんはIじいちゃんの最期まで一緒に                  
いるのが嫌なのかなと勝手に想像していました。 

翌日は死亡診断となりました。自宅の南向きの暖かい自分の部屋で、                  
Iじいちゃんは眠るようにしていました。
その脇でおばあちゃんはじっと涙をこらえて無言でしっかりと付き添っていました。

最初はつめたいおばあちゃんかなと思っていました。自宅でお年寄りが療養し、              
お迎えを向かえて行くことは、大切な事だと誰もが認めるところ。
しかし、実際に身近なご家族は、結局どうしていいのか判らないのが本当の            
姿だと気付きました。

お迎えを待つIじいちゃんに何もしてあげられないおばあちゃん。                  
でも何かしていなければ気が済まないおばあちゃん。                        
精一杯自分のできることで、心はIじいちゃんの事を心配し、十分に面倒を                
見ることができない自分を見つめていたのです。

暖かい、いちごの季節になると、本当はとてもとてもIじいちゃんの事が好きで、
自分なりにおじいちゃんとの最期の日々を、精一杯に過ごしていたおばあちゃんの事を思い出します。

Photo北澤幹男

いっぷく食堂6月のメニュ-

皆さん、こんにちは。いっぷく食堂家族会でございます。
 
 いつもご来店ありがとうございます。6月と言えば、梅雨時で蒸し暑い日が多くなります。そこでいっぷく食堂でも、見た目も涼しい冷たい麺をご用意致しております。

大勢の皆さんのお越しを今月も従業員一同、心よりお待ちしております。

                                    いっぷく食堂家族会
                                    いっぷく食堂従業員一同
                                                                                                   いっぷく食堂店主

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