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2016年5月27日 (金)

かもしか病院にハクセキレイの巣

かもしか病院の2階ベランダに鳥が巣を作った!という楽しそうな理事長北澤の連絡を受けて、r.kが取材に行ってきました。


かもしか病院のまわりには「はくせきれい」という鳥がたくさんいて、駐車場を歩いていると、尾をふりふりしながら歩く姿をよく見かけます。

そのハクセキレイがかもしか病院の2階病棟ベランダに巣をつくり、先日卵を産みました。

Img_0317

ベランダは日中陽ががんがんあたりとても暑そうなのですが、卵は大丈夫なんでしょうか。ゆで卵にならないか、心配です。

今日は残念ながら親鳥の姿は見えませんでしたが、無事に孵化してかわいいヒナが誕生することを願っています。

r.k


ゆで卵・・・・。r.Kさんはお腹が減っていたのでしょうか。

病棟では巣に気を使ってこんな感じで

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一度私が帰宅しようとして駐車場の自分の車に近づいたところ、なにやら「はくせきれい」が激しく私を威嚇します。

なんと私の車のタイヤハウスに巣を作っていました。申し訳ないけど、車を動かさないとおうちに帰れませんので、建築途中のはくせきれいのおうちはタイヤの上から撤去しました。まだ卵は産んでいなかったのは幸いでしたが。

自然豊かな下田の里山の一コマです。

t.k

2011年4月21日 (木)

グッドバイ ぽぽ

真っ白できつねの赤ちゃんのようだったぽぽ
いつの間にかボーダーコリーらしい薄茶色になっていた。
いつもらむの回りをちょこちょこしていて
ちょっと臆病でいっぱい甘えん坊だった。
悪性リンパ腫と闘いながらも明るくはねていた。
庭の桜がもうちょっとで間に合うというのに
4月19日午前10時に静かにお迎えと旅だってしまった。
グッドバイ ぽぽ また浄土で会おうね。

Photo

北澤幹男

2008年2月26日 (火)

雪の精(金平糖の夢)

雪は空からの精のお使いたち。

一粒ひとつぶが赤、青、黄、白、金、銀、いろんな色した金平糖

遠くから雲になってはるばると旅を重ねてたどりつく。

「僕が先に地上に降りていくよ」

「私はもうちょっと先まで飛んで行くわ」

「お〜い おいてかないで」

「私はあそこの小山に行ってくるわ」

わいわいがやがやと雪の精は雲の中から降りてきます。

「ほ〜ら うまく降りれたよ」

「私 半分溶けちゃった」

真冬の三日月が笑顔で皆を見ています。

晴れ渡った雪原には金平糖達があちこちと踊り回っています。

やがて朝が近くなり、雪原は降り積もった雪で静かになります。

春になり、山に降りた金平糖も、畑に降りた金平糖もみんなみんな

水になり、野原や小川を駆けて行きます。

そしていつか大海原にたどり着き、再会をはたします。

それぞれがたどってきた道中のお話をわいわいがやがやと

交わしながら、また来る冬を待ちながら、眠りにつきます。

皆がぐっすりと眠りについたとき、グラスの中に小さな手が現れ、

金平糖たちは子供にすくいとられてしまいました。

合掌 北澤 幹男

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2008年2月12日 (火)

パンジーと熊ごろう先生

僕たちの高校の数学の先生、熊ごろう先生。もちろん代々伝わったあだ名です。いつもよれよれの服を着て、ふらふらと廊下をさまように歩いています。シベリアに連れて行かれて頭が狂ったんだとか、息子さんが早くに死んでからぼけたんだと僕たちは噂していました。

 確かに先生は数学の授業を担当していますが、教壇の上ではこっそりと赤本を見ながらの毎日で、黒板に書いてる数式がとうとうわけの判らないものになる事もしばしばあります。

 

そんな時、熊ごろう先生は決まって黒板に耳をあてて

「お〜うい、黒板よ〜 教えておくれ〜」と言い始めます。

 それでも数学が先にすすまないと、更に黒板に向かって

「どうして教えてくれないんだ」などと嘘泣きを始めます。

 僕たちは先生の演技の見事さにいつもだまされてしまい、数学は結局のところ、自分で勉強しなきゃならないんだなあと、変に納得させられてしまいます。

 教務室にいるのが嫌いで、いつも学校の回りの花壇ばかりいじってる熊ごろう先生。見かけも授業も、とても高校の先生とは見えず、よそのおじさんが勝手に学校の花の手入れをしている風にしか見えません。

 ある日、先生はパンジーの花壇に水やりをしていました。一心不乱にパンジーの一花一花に向かっている先生の真剣さが、僕らにはとても滑稽でした。

ついつい先生の背中に向かって僕は

「ボケの熊ごろう!」と声をかけてしまいましたが、先生は聞こえぬ振り。

そのうちに、聞こえていなかったはずの先生が、後ろを向いたまま

「おい 北澤 このパンジーはお前達なんだよ」

「パンジーの花は、人の顔に似てるだろう」

「そして ひとつひとつ みんな違う模様なんだよ」

「俺にとっては なあ〜 この パンジー達はお前達なんだよ」

「みんな ひとりひとり違うだろ」

「俺にとっては なあ〜 この パンジー達はお前達なんだよ」

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北澤 幹男

2007年11月28日 (水)

桃盗人

桃を盗みに、畑に忍び込んでいた。
小学生の私と友達は、ドキドキと破裂しそうな心臓を抱えこんでいた。
体をひそめながら、こそこそと甘い桃を夢見ていた。
塩おにぎりのおやつは子供にとって飽き々で、甘いおやつが欲しかった。
今だ!!! 二人は猛ダッシュで桃の木の下にたどりついた。
鈴なりの桃の実が、ダイヤモンドのように輝いて見えていた。
両手いっぱいに桃を抱えたかった。そして腹一杯に甘い桃を食べたかった。

突然 
「こらあー」
「お前達何してるんだ」
「桃盗むなあ〜」
という大きな声が、耳の後ろから聞こえたかと思った瞬間に、二人は捕まってしまっていた。

「勝手に畑のものを盗むな」
「一生懸命に手をかけて育てているんだ」
「どこの小学校だお前達は!」
散々としかられ、二人は泣きじゃくるばかりだった。あまりに怖かったのと桃が手に入らなかった悔しさとで大泣きをしていた。

「もういい」
「帰れ!二度と来るなよ!」
ほっとしてぼとぼとと帰る私たちの背中に向かって
「おい 待て!」の一声。
二人はもう一度、恐怖のどん底に真っ逆さまに落ちてしまった。

「お前達が盗った桃はまだ青くて食えん」
「この熟した桃を2個ずつ持っていけ」

北澤幹男

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2007年11月14日 (水)

ホテル・カルフォルニアに

サンタナの「哀愁のヨーロッパ」を聴きながら、夕焼けを黙って眺めている。
何も言葉が浮かんで来ない一日の終わりに、エレキギターの音が長く長く
尾を引いている。
 こんな真っ赤な夕焼けを今まで何回見て来たのだろうか? 今まで一体、
何日生きてきたのだろうか。考えようとしても、何も浮かんでは来ない。
哀愁のヨーロッパのエンディングは長く、ずっと尾を引いて終わっていく。
 夕焼けから夕闇にかかる頃に、イーグルスの「ホテル•カリフォルニア」を
フルボリュームでかける。この曲を初めて聴いたのはいつだったのか、
どうしても思い出せない。激しい曲の中で、ずっと昔の自分が、
ふっと思い出として沸き出てくる。
 停学となった高校生の私は、ひとりでぽつねんと自宅にこもっていた。
暮れ行く夕方に、外のざわめきが懐かしく聞こえていた。窓から見ると、
空が真っ赤に焼けて、世界中が紅蓮の炎に包まれているように見えていた。
心がちょっとわくわくしている自分がそこにいた。
 夕焼けを通してあの頃の自分と出会う事が出来るのだろうか、あの頃の
自分はもう、何処にもいないのだろうか?

北澤幹男B2e8c1fc20360

2007年7月 4日 (水)

医者嫌いのたつおさん

70をとうに過ぎた、たつおさんは、山深い小さな集落に、一人暮らしです。心臓が悪いために、入院を勧められていますが、頑なに拒み続けていました。

ある日医者嫌いで有名なたつおさんが、かもしか診療所に来ました。

「ぜいぜいぜい」
「たつおさん、どうしましたか」
「ぜいぜいぜいぜいぜい」
「あー心臓が難儀いんですね」
「ぜいぜいぜい」

これでは死んでしまうと思い、点滴をして、症状を緩和すると顔の色も戻り、話もできるようになりました。

「たつおさん、今日は安静にしてくださいよ」
「今日はお湯に入りにこれから運転していくんだ」
近くにある、いい湯らていに行くつもりだと察した看護師さんが
「たつおさん、温泉なんか入ったら死んでしまうから止めなさいよ」
「死のうが死ぬまいが温泉に入りたいんだよ」

しばらくやり取りして、たつおさんはしょんぼりと帰りました。しばらくしてたつおさんは車の運転もできなくなり、歩くこともつらくなってしまい、ひとりぼっち家で寝込むようになりました。

見かねた息子さんが、町で自宅を建てて、たつおさんの部屋も作り呼び寄せようとしましたが結局は断ってしまいました。何回かの冬を一人で過ごしながらヘルパーさんが作る食事と訪問看護師さんの世話を受けながら過ごしていました。

暑い夏の日に訪問看護の看護師さんから、たつおさんがやせ細ってこのままだと夏を乗り切れないかもしれないと、報告がありました。

症状が重いようなので、息子さんから入院を説得するようにお願いしましたが、本人が拒否してしまいました。仕方がないので、親戚一同が集まり、本人に病院受診を強く勧めましたが、頑として受け入れません。みんなが困っていると、かもしか診療所なら行ってやってもいいと言い始めました。

翌日に車椅子の乗せられてたつおさんはやってきました。以前とは変わり果て、痩せこけて無精髭の顔はつらそうでしたが、相変わらずの空元気です。

「たつおさん、まだ生きていたんですね」
「まだまだ死なないわね」
「餓死しそうなので、点滴しますね」
「う~~む、よかろう」
「ところでせっかくたつおさんをとっ捕まえたので、車を呼ぶけど、白い車と黒い車のどっちがいいかな」
「いやーーー、どっちもいらん。特に黒い車はやだね」

ということで、町の病院に連絡をとり、すぐに救急車を呼びました。救急車に運び込まれるたつおさんは、どこかホッとしたような表情にも見えました。救急車が立ち去るのを、みんなでやれやれといった感じで見送りました。

その日の夕方後片付けをして、帰ろうとしているところに、たつおさんの息子さんが訪ねて来ました。実は病院に救急車で行ったのだけれど、結局本人が絶対に入院しないと激しく抵抗した為に、病院にもあいそをつかされてしまい、戻ってきてしまいましたと・・・・

息子さんの車を覗き込むと、後ろの席にたつおさんが嬉しそうにちょこんと小さく座っていました。

「先生、戻ってきたよ、明日往診に来てくれ、えへへ」とのたまいました。

たつおさんにとって、思い出が詰まっている自分の『家』から離れることは、死ぬことと同じだったのです。自分の病状を知っているから、医者や病院に行くことが出来ないのでいたのでしょう。

どんなに貧乏だろうが、山深い地であろうが、たつおさんには最後まで大事な場所だったのです。地位やお金や物ばかりが大事にされる今という時代、形のない大事が見失われそうです。P1000367                           
北澤幹男

2007年6月15日 (金)

テリさんの畑

※また梅雨の季節がやってくると同時に、3年前の7.13水害が思い出されます。そして中越大震災。理事長北澤幹男からのテキストです。2005年に作られたテキストなので、村内という表記がありますが当時の下田村のことです。(T.K)

テリさんの畑

山間の斜面の、林で囲まれた所に、テリさんの小さな畑があります。畑は自宅のある集落からはかなり離れていますが、八十歳を過ぎたテリさんは、小さな手押車を押しながら、ほとんど毎日のようにやってきます。

本当に小さな畑ですが、自分一人で作れるものは季節ごとにいろんな野菜を作っています。春には一塊のイチゴが花を咲かせ、秋には立派な里芋が掘られます。どれもほんの少しずつしか作りません。テリさんの家の食卓はスーパーで買ってきた食材が中心で、畑のものは食卓に出ず、テリさんが自分で食べ、友達にわける分だけ野菜を作るのです。

その日は朝から湯船をひっくり返したような土砂降りが続いていました。小さな診療所も雨で流されるののではないかという降り方でした。山であふれた水が直接周囲を流れ始め、用水は水を吹き上げました。

昼ごろには、村に通じる橋は全て通行止めとなり、道路も大半が遮断され、とうとう孤立してしまいました。川は堤防を越えるようになり、いたるところで田や畑が川となり、近くの温泉施設は海の中に孤立した状態となりました。そうこうするうちに、ダム決壊の恐れが出て、放水サイレンが不気味になり続け、村内の多くの集落に避難指示が出ました。

夕方を過ぎて、雨は小降りになり、川の水位の上昇も落ち着きましたが、三条市街地では土手が決壊し、大変な惨事となりました。

水害が去り、しばらくしてテリさんの畑に行ってみました。相変わらず、黙々と畑仕事をしていましたが私を見つけると「山からこの畑に、滝のように水が流れたらしく、かなりながれてしもたて」「でももう普通の畑みたいに復活していますね」「自分の畑だからね、一生懸命なおしたて」「根こそぎ流れなくて良かったですね」「洪水よりも人間の方が根こそぎ盗んでいくからおっかねって」

この村では春から秋にかけて、栽培している山菜、庭先の花、キノコ等、よく観光客に盗まれます。田舎とはいえ、私有地なのに、たけのこも根こそぎ盗まれます。たけのこのある場所に、わざわざ「ここの竹の子取るな」と看板を出す人もいました。

「洪水が畑を襲ったけど、町の盗っ人と違って根っこは残してくれたっけね」と明るい笑顔で、また畑仕事に戻りました。

秋の一日が終ろうとする夕方六時直前でした。ゴオーという不気味な大音響とともに天地がひっくり返るような揺れが来ました。最初は何が起きたのか理解ができませんでしたが、すぐに次の大揺れが来て地震だと気付きました。その日は大地震並みの余震が明け方まで続き、恐ろしい夜となりました。

翌日に診療所を見てみると、カルテは散乱し、天井の一部が下降し、所によって落ちてきたガラスが散乱し、壁にヒビが入っていましたが大きな被害は免れました。新潟県中越大震災は村内にっも、あちこちで被害を残しました。

余震も減ってきた頃、テリさんの畑で一生懸命働く姿を見つけました。

「地震でも畑は大丈夫だった見たいですね」「長く生きたろもおっかねかったの、畑は大丈夫らったて」「少しずつ作ってればいいんだてば、少しずつ、自分の分だけ作ってればいいんだてば、少しずつ、自分の分だけらてば」

今年もテリさんは、すこしずつ野菜を作るのでしょう。厳しい季節や気候の中で、小さな畑は、きっと大きな掌の上にあるのでしょう。洪水や地震にもまれながら、私たち自身の右往左往も、掌の上であることを忘れそうです。

Photo北澤幹男

2007年6月 8日 (金)

ラムの憂鬱

ふさばあちゃんはとてもとても小柄なおばあちゃんでした。                    
それに比べておじいちゃんはとても背が高く、ポストと電柱のような夫婦でした。            
村の中で一番奥の小さな集落に二人は住んでいました。
おじいちゃんは大変な医者嫌いで、ボケが進んでもめったに診療所には              
来ようとせず、とうとう田んぼにはまって息絶えている状態で見つかりました。

ふさばあちゃんは半狂乱となり、町の娘さんの家にしばらく預けられて              
しまいました。
往診に行くとふさばあちゃんは寝たきりの状態で、食事もままならぬ様子で             
更に一回り小さくなったようでした。
町に嫁いだ娘さんにあずけられてからは、自宅恋しさがかえってつのり、             
日に日に弱ってしまい、腰まで痛くなり、どうにも辛い療養となっていました。

その頃、診療所に併設して、老人保健施設が開所した為に、面倒の見切れなくなった
ふさばあちゃんは、入所する事となりました。

また我が家には、赤毛のボーダー・コリー犬の子犬のラムちゃんが来ました。         
最初は縫いぐるみのような小さなラムでしたが、やがて朝は一緒に老人保健          
施設の中を散歩するようになりました。
ふさばあちゃんは置いて来た6匹の猫が心配でしたが、ラムが寝ているベッドに        
ちょこっと顔を出すと大変に喜び、枕の下からせんべいを半分くれました。

その日から決まって、ラムはふさばあちゃんの部屋に顔を出すように               
なりました。ふさばあちゃんは毎朝毎朝ラムが来るのを待っていました。            
そのうちに、頭と首がだいぶ動くようになり、
ベッドからラムを見下ろし、「ラムちゃんや、私の家の猫達はどうしているだろうね」、
ラムは「ふにゃふにゃ」、「ご飯をもらっているだろうかね」「ふにゃふにゃ」、
いつの間にかこんな会話も聞かれるようになりました。

こんな状態が何ヶ月も続いたある日、とうとうふさばあちゃんはベッドに            
身を起こせるようになり、
「早くラムを追っかけられるようになればね」「ふにゃふにゃ」「歩けるようになれれば」
「ふにゃふにゃ」等と会話しながら、ベッドの脇からせんべいをくれました。

やがて車椅子でホールにも出られるようになったふさばあちゃんは、                
朝にラムを見つけると、全速力で車椅子で自分の部屋へとせんべいを             
取りに行くようになりました。                                       
とうとうある朝行くと、そこには壁に伝いながらも二本の足で立っている              
ふさばあちゃんがいました。
ラムの顔を見つけるなり、                                                  
「ラムやおまえのおかげで歩けるよ」「ふにゃふにゃ」
「ラムやおまえがいなかったらまだ寝たままだよ」「ふにゃふにゃ」と                     
言いながらせんべいを取りに行きました。

それからしばらく経った頃には、ふさばあちゃんはラムの顔を見つけると、             
走って自分の部屋にせんべいを取りに行けるようになりました。おかげで女の子としてお年頃を              
迎えたラムはすっかりとふくよかになってしまい、ダイエットと運動を命じられる          
事となりました。

その後、ふさばあちゃんは診療所の隣に出来た、特別養護老人ホームに              
入所しました。また、ラムにはポポという名前の赤毛のボーダー・コリーの            
妹が来ました。ラムとポポは、今は毎朝毎朝特別養護老人ホームに
散歩に行きます。ラムを見つけると、ふさばあちゃんは相変わらず                    
「ラムやよう来た」「ふにゃ」と
自分の部屋にせんべいを取り行き、「ラムやこれしか無いよ」「ふにゃ」と               
沢山のお菓子を抱えて戻って来ます。
やっとスリムな女の子になりつつあるラムには、うれしいけれども憂鬱な               
有り難い時間を過ごしています。Photo_2
北澤幹男

2007年6月 7日 (木)

いちごの時間(とき)

Iじいちゃんはとてもわがままなおじいちゃんでした。

診療所は山深い所にあり、毎朝マイクロバスで患者さんをご自宅まで向かい          
に行き、診療が終わると再びお送りしています。
ある日突然、「今S市のS総合病院の玄関にいるからすぐに向かえに来て           
欲しい」と電話が来ました。悪びれた様子もさらさら無く、診療が終わると            
「T市の整骨院まで送って欲しい」とのたまわれます。
毎日のように診療所に来ては、周囲のお年寄りに、若いときの自慢話や            
色んな説教を繰り返し、少し鼻つまみ者状態でした。
それでも80才はとうに過ぎているとは思えないバイタリティに満ちており、
いわゆる元気な、ちょっと呆けたおじいちゃんで、憎めない所もちゃっかり           
と備えていました。時にはあまりのわがままさから、家族とうまくいかず、           
「整体マッサージにかかるから」と言ってホテルに泊まり込む日々もあり            
ました。周りの人には家に帰れない状態とも言えず、「ちょっとホテルで            
静養しているのである」と待合室で自慢げに話しているのが聞こえました。

Iじいちゃんは診療所の為には一生懸命でした。ある日曜日、診療所の            
前庭で一生懸命に大きなそてつを植えているあやしげな人影が有りました。         
近づくと、Iじいちゃんが一生懸命に土を掘り返していました。                   
「診療所の庭にそてつを持って来てやったよ、心配だから自分で植えるんだ」と         
振り向きもせずに植えています。
後日、自宅の庭から勝手に抜いてきたものと判り、ご家族にお詫びの              
連絡をとるはめになりましたが。

ある日、Iじいちゃんは診療所の待合室で意識が無くなりました。                
周りのお年寄りは、
「また、いつもの発作のまねだよ」等と言ってますが、さすがに点滴をして、
救急車にて病院に入院して貰いました。この頃から、Iじいちゃんも入院が           
長びくようになりました。

自宅に退院してきたIじいちゃんは、手足もほとんど動かない寝たきり状態で、         
鼻からチューブが差し込まれていました。
その日から、私の往診が始まりました。過疎の村にも分け隔て無く暖かい            
日がさすようになった頃、少しずつ様態は悪化していき、お迎えが近くなって          
来ました。

ある日往診すると、ここ2〜3日でお迎えが来る様子で、日中一人で面倒            
見ているはずのおばあちゃんにお話しました。その夜は緊急の電話が             
来るかと心配していましたが、無事に一夜が過ぎました。よく日行くと                
Iじいちゃんの様態は更に悪化していました。おばあちゃんに事情を説明し、            
Iじいちゃんのそばについていて欲しいとお願いして帰ろうとすると、                 
両手いっぱいのいちごをおみやげにと差し出されました。                      
なるほど、往診に来たときにおばあちゃんがいなかったのは、畑にいちごを            
摘みに行っていたのだと判りました。

次の日行くと、またおばあちゃんがいませんでした。往診が終わり、               
帰ろうとすると台所からおばあちゃんが出てきて、小さなボールに                         
いっぱいの洗ったいちごを黙って手渡してくれました。                          
「Iじいちゃんはいよいよ最期だから、一緒にいてあげてね」言い残して帰りました。
また翌日往診に行くと、やはりおばあちゃんはいませんでした。                   
暖かい日で散歩でもしてるのかなと思っていると台所でごそごそと音がします。            
帰り間際に小さなタッパーに詰められた暖かい、作りたてのいちごジャムを            
差し出しながら                                              
「先生、いちごジャム食べるかね」「じいちゃん、もうすぐらかね」と                  
ぼつぼつと小声で聞かれました。
「うん、いちご有り難う」「じいちゃんはもうすぐだ」と答え、暖かくていい匂いの           
するいちごジャムと共に家を出ました。

どうして危篤のIじいちゃんと一緒にいてくれないんだろう。やっぱりあれだけ          
わがままだったから、面倒を見るのが嫌なのかなと勝手に考えていました。
次の日も往診に行きました。さすがに今日明日という状態に陥っており、            
最期は一緒にいてあげてねとおばあちゃんに頼もうと家の中をさがしたら、           
うす暗い台所の椅子にぽつんと寂しそうに座っていました。
とても甘い暖かい香りのする台所でした。
「ほんのもうちょっとでお迎えが来るからね」と言い伝え帰ろうとすると、                      
おばあちゃんは大きなボールにいっぱいの、作りたてのいちごジャムを               
手渡してくれました。
「いちごは全部摘んだ、先生が往診に来るのも今日が最後だと思うから、            
いちごは全部ジャムにしたんだ」。

帰りの道すがら、やっぱりばあちゃんはIじいちゃんの最期まで一緒に                  
いるのが嫌なのかなと勝手に想像していました。 

翌日は死亡診断となりました。自宅の南向きの暖かい自分の部屋で、                  
Iじいちゃんは眠るようにしていました。
その脇でおばあちゃんはじっと涙をこらえて無言でしっかりと付き添っていました。

最初はつめたいおばあちゃんかなと思っていました。自宅でお年寄りが療養し、              
お迎えを向かえて行くことは、大切な事だと誰もが認めるところ。
しかし、実際に身近なご家族は、結局どうしていいのか判らないのが本当の            
姿だと気付きました。

お迎えを待つIじいちゃんに何もしてあげられないおばあちゃん。                  
でも何かしていなければ気が済まないおばあちゃん。                        
精一杯自分のできることで、心はIじいちゃんの事を心配し、十分に面倒を                
見ることができない自分を見つめていたのです。

暖かい、いちごの季節になると、本当はとてもとてもIじいちゃんの事が好きで、
自分なりにおじいちゃんとの最期の日々を、精一杯に過ごしていたおばあちゃんの事を思い出します。

Photo北澤幹男