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2006年8月21日 (月)

しただの散歩落書帳 その2 道ばたの石ほとけさん

散歩で歩いて行くと道ばたの草むらの中に、何か石の固まりを見つける事があります。草をかき分けて覗き込むと、そこにはすり減った石の仏様や道祖神が立っておられます。

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多くは表面が摩耗し、仏様なのか神様なのかも判らなくなっています。夫婦でおられれば道祖神だとも判りますが、ようく見ないとただの石の固まりのようになっているものも多いようです。
特に、道祖神は夫婦一緒で見分けやすいのですが、既に何時作られたのか、誰が建てたのか、どうしてここにおられるのか、全く不明になっています。
じっと道ばたに立っておられ、冬は深い雪に埋もれ、春は草から顔を出し、梅雨には雨に打たれ、夏の炎天に焼かれ、秋の静かさにひっそりと立っておられます。

2
昔、辛い思いを背嚢の奥にひそめて出征していった人々を、悲しい思いを行李につめて出稼ぎに行ったおとうさん達を、寂しい思いを胸に抱えて集団就職で出て行った若い人たちをじっと見送ってこられたのでしょう。また、花のようなお嫁さんが通り、亡くなった方の見送りを、宝物を抱くように赤ちゃんと一緒に帰ってくるお嫁さんを、色んな人々が行き交うのをじっと黙って見つめ、道行きの安心を願っておられたのでしょう。

今は便利な車社会。どこへ行くにも便利に目的地にたどり着きます。車からは見えない道ばたの草むらの中。便利な社会が忘れかけた思いが佇んでおられるような気がします。
私自身、色んな方々から、見えない形の思いを寄せていただいている事も多いのに、その思いを、見ないで、見ようとしないで今まで過ごしてきているような気がします。

気がつかない、見えない所から、石ほとけのようにじっと見守っていただいているのに、自分自身の傲慢にハッとする事があります。

北澤幹男

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コメント

新潟の昔からの風景が残る里山の集落を車で走ったり、歩いたりすると、よく道ばたに道祖神、お地蔵様の姿を見つけます。
「塞ぎのかみさま」としてその土地に災いが入ってこないように、見守っていてくれる存在だということを知らない子どもたちも多いのではないでしょうか。(私も同じですが…)
私の感覚ですと市街地で道祖神を見かけることはほとんどありません。
しかしどこかにきっと存在していて、見守っていてくださるのかもしれません。

私たちの生活を昔から見守ってくださる神さまであっても、その存在自体も、そして人のこころのなかでの存在も、忘れさられてしまうものがあるとおもいました。
だからこそ、地域のことを親から子どもへ伝えたり、学んだり、伝えたり、まちを昔から知っているおじいちゃん、おばあちゃんたちにお話を聞いたりすることはとても貴重なことだと思います。
今回の落書帳を読んでそんなことを思いました。

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